雲龍寺の歴史
雲龍寺は、高山の市街地から東方に見える小高い山「東山」の一角にあります。当山は奈良時代の養老4年(720)に、泰澄大師が白山社を創建して別当とした妙観寺が元と伝わります。室町時代の応永2年(1395)、当山2世竹窓智厳禅師が求法の旅の折、たまたま飛騨へ巡錫され白山権現の別当妙観寺へ立ち寄られましたが、寺は無住となりすっかり荒れ果てていました。竹窓智厳禅師は荒廃した妙観寺の堂宇を修復し、曹洞宗大本山総持寺の門末として寺を開くこととし、師の了堂真覚禅師を開山に請して曹洞宗飛騨最初の道場雲龍寺を創建しました。
当山は高山城主金森長近公の長子忠次郎長則の菩提寺です。長則は織田信長公の長子信忠に仕えていましたが、天正10年(1582)6月に本能寺の変が起きた際、二条城で襲撃を受け、19歳という若さで主君と共に亡くなりました。天正14年高山城主となった父金森長近公は長則7回忌に当たる天正16年、当時高山第一の古刹雲龍寺に於いて盛大に法要を営み、長則の菩提寺に定めると共に寺領の寄進、堂宇の修復などを行い、金森代々当時大檀那として大いに帰依しました。
元禄5年(1692)高山城が幕府の命令により加賀藩に預けられるもその煩いに耐えず破却されることになりました。その時、高山城内二之丸にあった黄雲閣という建物を当寺に下附されたのが現在の鐘楼門であり、その姿は高山祭りの屋台を彷彿とさせます。
当山は曹洞宗大本山総持寺の直末寺院であり、本山が輪番制(住職の交替制度)であったころ、本山管長として12名の住職が昇住されています。
室町時代作庭とも言われる庭園がひとときの安らぎを与えてくれます。心字池の周りを半円形に刈り込んだ躑躅が波形に植え込まれ、松、椿、楓が調和よくその上を囲み、春は新緑と躑躅、夏は無数の可憐な山野草、秋は真っ赤に色づく木々、冬はしっとりとした雪景色と四季それぞれに趣を見せてくれます。